2002年7月21日日曜日

〔再録〕荷風はやはり背が高かった! 2002.7.21


「荷風塾」学校通信 No5
School News
2002.7.21              余丁町散人
新発見
荷風はやはり背が高かった!ちょっとした「大発見」をしました。やはり荷風は背が高かったのです。下の写真がその証拠です。どうしてそうなるのか、これから説明します。


(写真をクリックすると大きくなります)






今までの定説
 松本哉氏による身長推計松本哉氏が荷風の身長推計を発表されるまでは、荷風は背が高いと考えられてきました。『日和下駄』の冒頭の「人並みはづれて丈が高いわたしは・・・」という印象的な文章が人々の頭のなかに「背が高い荷風」というイメージを定着させてきたのです。俗世間を一段低く見て辛辣な批判を続けた孤高の偏屈男であったことも「背が高い荷風」というイメージづくりを手伝ったものと思われます。わたしもそういう風に考えておりました。

ところが松本哉氏はその著『永井荷風の東京空間』のなかでその通説を真っ向から否定されました。現存する荷風の写真から(三ノ輪の浄閑寺の門に立つ荷風の写真)から荷風の身長は165センチと推計されたのです。みんなとてもガッカリしました。

ところが反論しようにも、松本哉氏はれっきとした証拠写真をお持ちですから、反論材料がなかった。みんな悔しい思いをしたと思います。でもご安心ください。新しい反論材料が出来たのです。
関口水神社の銀杏と鳥居
"Smoking gun" (動かぬ証拠)
ページの一番左上にある小さな写真をクリックしてみてください。これは荷風が昭和20年4月10日に描いたスケッチです。当時の荷風は偏奇館を焼け出され中野に移っていたのですが、4月10日、関口から早稲田を散歩します。水神社の境内から早稲田の町並みを描いたのがこのスケッチです。

小生はこのスケッチが好きで、一度同じ風景を写真に撮ってみたいと思い、最近水神社に行って来ました。そこで荷風のスケッチ通りの写真を撮ったのが左の写真です。ほとんど同じ風景です。

ところがこの写真を撮るのに意外にたいへん苦労しました。どうしても荷風のスケッチ通りにはならないのです。銀杏を写すと鳥居が見えない。逆に鳥居を写すと銀杏が入らない。鳥居の位置が低すぎるので相当高い位置からでないと荷風のスケッチ通りの眺めとはならないのです。

そこで神社の前にある踏み石に登り、デジカメを頭の上に高く掲げながら撮影したのが左の写真なのです。わたしの身長は175センチ。だから荷風が左上のスケッチが描けるためには荷風はわたしより、少なくとも5-10センチは、背が高くなければいけない計算です。

やっぱり荷風は背が高かったのです。大満足です。

ちなみに松本哉氏の写真推計ですが、同氏がお使いになった写真では荷風は門からちょっとだけ内側に立っているように見えます。広角レンズの場合、わずかな距離差で大きさが違ってきますので、実際より低く見えてしまう可能性が強いと思います。

半藤一利氏は昭和34年荷風の死に際し真っ先に駆けつけた人ですが、「市川署が葬儀屋に手配して届けさせた2500円の棺」は荷風には小さすぎて「無理矢理足を曲げて棺に入れた」と生々しく証言されています(『荷風さんと昭和を歩く』)。

われらが「大荷風」はやはり背の高さでも「大荷風」であったのです。

2002年7月8日月曜日

杉山和彦君のこと

2002.7.8

杉山和彦君のこと

杉山が死んでからちょうど4年になる。神戸港の埠頭での無惨な最期だった。理由はわかっていない。

杉山と友達になったのは、多分中学3年生か高校一年生の頃だろう。学校からのスキーに行くとき急行「ちくま」で同じところに座った。彼と一緒に座れて良かったと漠然と感じたことを覚えている。癖のある連中が多い学校だったが、杉山は芦屋のぼんぼんらしく品がよくって社交的だったから。スキー場でリフトから、彼がなんでもない緩やかな斜面でああ向けざまにひっくり返ったシーンも覚えているから、風景からして中学校のころ毎年行っていた野沢温泉ではなく、妙高か赤倉だったと思う。だったら高校一年生だったのだろう。

彼はぼくのことを「スマイリー」とあだ名を付けた。当時聴衆の方を向いてバンドを指揮することで人気があったスマイリー小原に額が似ているとの理由。カタカナのあだ名はちょっと格好が良くうれしかった。彼の交友範囲はいわゆる遊び人タイプの阪神間のぼんぼん連中であり、おかげでそれまでは遠くで見ているだけだったそういう連中とのつきあいも出来た。亡くなった田端強もその一人だった。田端は16歳の時に運転免許を取っていたので彼の運転で三人でよく遊び回った。車はそれぞれの親の車を順番に無断拝借するのだが、出来たばかりの名神高速をぶんぶん飛ばしたり、六甲山に上ったり、子供だったからそんなことで楽しかった。三宮近辺の、当時は不良のたまり場とされていたジャズ喫茶に杉山とよく行った。ふたりともウクレレを弾く程度で楽器は駄目だったが、不良の振りをするのが好きだったのだ。

大学になると杉山は慶応に行き、ぼくと田端は京都だったので別になってしまったが、夏休みなどは一緒に遊んだ。正月にいきなりぶらっと来て二人でドライブに出かけたのはいいけれど、西国街道を北に進むうちに調子に乗って「ぶんぶん」進みついに舞鶴まで行ってしまった。ロシアの貨物船が日本海に浮かんでいるのを見てさすがに遠くまで来たと心細くなり、そうそうに帰路に就いたが、帰りの雪道でパンク。杉山のお母さんの車を正月に持ち出していたので後で大目玉を食ったこともあった。

大学時代、杉山は原宿にアパートを借りていた。皇家飯店の横を入ったあたりだったが、当時から原宿は遊びスポットとして注目を浴びていた場所。住むところといいいでたちといい杉山はいっぱしの「遊び人」で、いろいろその方面の蘊蓄を聞かされたが、不思議なことに彼と女性を交えて遊んだ記憶はない。口や格好とは別に、女性にはシャイな人間だったと思う。卒業論文も見せてもらったが立派なものだった。就職が決まるとすぐ「財界」とかの経営雑誌を読み始め、財界内情についてとかいろいろ彼の「講義」を聴かされた。ウブで世間知らずのぼくにとって彼は「人生の先輩」であった。

卒業してから彼は化学会社に就職したが、しばらくして辞め親戚筋の老舗企業に移った。その会社の社長の娘と結婚したので、やがては跡を継ぐとの含みとのことだった。だが会社は奈良にあったので彼も奈良に転居し、田端は一転して真面目な大学の先生になったり、ぼくは外地に行ったりして、それまでのあそび仲間と頻繁につきあうことが少なくなった。葬式の時に仲間の一人が「杉山も可哀想に、奈良みたいなところに行ったから駄目なんだ。阪神間に居ればこんな事にならなかった」とぽつりと漏らした。

ぼくが外地から帰ってきて、ある理由で実家に出入りできなかったとき、「困っているときこそ友達だろう」と言って杉山はぼくと家内の関西でのロジスティックを世話してくれた。彼の会社は全国に工場を持っていたので東京には頻繁に出張してきた。その際よくぼくのマンションに泊まった。半年に一度ぐらいは会っていたのだろうか。いつも変わらない馬鹿話と自慢話をするなかであったが、ただ彼が社長を引き継いでからは、ちょっと座ったような目つきをしていることがあり、社長業のストレスの強さをかいま見る思いもした。

彼が亡くなる数ヶ月前、彼と神楽坂で飲んだ。ちょうどぼくが個人的トラブルを抱えていたときでつい愚痴っぽくなったら、杉山は急に反対サイドに立って感情的に説教をはじめた。腹を立てたぼくが「そんなこと言うやつは友達じゃない」といってしまい彼は一転して如才なく話題を変えたが、妙に気になった出来事だった。ぼくが抱えていた問題と同じ種類の問題を彼も抱えているのだと第六感で感じた。

2-3ヶ月たって彼から電子メールでぼくの書いた文章に対する感想を寄越してきた。誉めてくれていたのだが、いままで無かったことであり珍しいことだと思った。へんに真面目くさった文章でありこれも奇異に感じた。それから一ヶ月ちょっとして彼は死んでしまった。

困ったときこその友達だろうに! 最後まで弱みを見せなかった杉山と役に立てなかった自分が腹立たしく無念である。7月8日夜中、彼は車を出して、自宅のある奈良から楽しい子供時代を過ごした神戸まで彷徨ってきたという。そのとき彼の頭のなかには何があったのだろうか。



〔旧HP閉鎖により再録〕

2002年7月2日火曜日

ワールドカップ雑感(日韓関係)

2002.7.2


スポーツ観戦はそれほど趣味ではないんですが、さすがにワールドカップ期間中はテレビを見ることが多かったです。日本が勝つと大興奮。負けてしまうと悔しかった。でも同じ開催国である韓国が残っていたから韓国応援に切り替えました。見てみると韓国は強いですね。強豪イタリアには走りまくって辛勝し、優勝候補のスペインまで撃ち破ってしまいました。散人は韓国を応援していたので「非常に結構」だった筈なんですが、正直に認めますと、何か複雑な感情も芽生えてきたのも事実でした。「日本が負けたのに何で韓国だけが勝ち続けるの」とちょっと面白くなかったのです。散人ばかりじゃなく、多くの日本人が同じような感情を持ったといろんなところで聞きました。ちょっと由々しきことかもしれません。

考えますに、これは「嫉妬心」です。「嫉妬」と言えば、女性の方には失礼ですが、古くから女の専売特許みたいに考えられてきました。でも男にも嫉妬心は確実に存在する。もっとも観察してみますに男と女では嫉妬の現れ方がちょっと違うようです。女の場合「いいなあ、あんなのになりたいなあ」と願望の形で現れるのが多いのに対して、男の場合は「なんだ憎たらしい、いい思いをしやがってけしからん」と否定的な形で(足を引っ張るともうしましょうか)表現されることが多いようであります。もちろん女の方にも男のような嫉妬をもたれる場合もあり、逆もまた真の場合もあるのですが、なんかこんな感じがします。

嫉妬心がサッカーとか男女関係に留まっているかぎり大した問題ではないでしょう。けれど昨今この感情が社会問題、国際問題まで広く広がりつつあるような気がします。日本には江戸時代から「等しく貧しきを憂えず」という結果平等思想がありました。「みんな貧しくとも人並みである限り」特に不満はなく、自分の交際範囲や認識範囲が限られた範囲に留まっていた時代には、人々は結構幸せであったと思うのです。でもグローバル化、情報化の時代になるとそう言うわけでもなくなってきます。映画やテレビで見るばかりだった豊かな国の豊かな生活ぶりがより直接的に個人的に認識されるようになり身近なものとなってきています。いままで認識しなかった格差を認識する機会が増えたとも言えるでしょう。ならば「男の嫉妬心」に基づく摩擦は今後どんどん増加すると考えるべきでしょう。昨年の同時国際テロ事件の背景にも、貧しい国の豊かな国に対する嫉妬心があったとの見方があるのです。

また今回サッカーを見て改めて認識したことは、世界的に「ナショナリズム」がまだまだ健在だと言うことです。何十万人が街頭に繰り出し自国のチームを熱狂的に応援する。あのエネルギーに、たかがサッカーといえないような、ある種の不安を感じてしまいました。このナショナリズムが、グローバル化でますます燃え上がりやすくなっている上記の「男の嫉妬」感情と結びつくとどういうことになるのか、戦前のナチズムが裕福なユダヤ人に対する一般人の嫉妬感情から生まれ出たものであることを考えると、日本は明らかに妬まれる側に属している以上、空恐ろしいような気がします。

今回のワールドカップで韓国は、そのチームの体力、技術、それを応援する国民的結束力、全ての面においてその強さを示しました。こういう不安な世界であるからこそ、日本は強い隣人を頼りにするべきです。間違っても敵対側に追いやってはなりません。故高坂正堯が「歴史上のアングロサクソン常勝の秘密は常に強い相手を自分の味方に取り込んだから」と言っていましたが、現在の日本に当てはめて考えると韓国は強くなったからこそ日本の味方として取り込むべしと言うことでしょう。

散人が韓国に初めて旅行したのは1975年でしたが、当時の韓国の貧しさに驚きました。それに比べれば現在は驚くほど豊かな国になっており日本とほとんど変わりません。その意味で「気を遣うことなく話が出来る」相手です。
日本と韓国の二国間の歴史は、支配被支配を繰り返し長年に渡りいがみ合ってきたイギリスとフランスの歴史と似ています。でもいまやイギリスとフランスは、よきライバルではあっても、ほとんど共通の文化と価値観を共有し、お互いに尊敬しあい協力しあう仲となっています。やれば出来るのです。今後の日韓関係が目指すべきものは、現在のイギリスとフランスのような関係に他ならないと感じます。